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中国流民主主義

  • 2021年03月30日

 アラスカ州アンカレッジで行われた米中外交トップ会談において、中国の外交トップである楊潔ち(よう けっち:ちの漢字が表記できませんでした。)氏が「アメリカや西側諸国は国際世論を代表するものでは無い。世界の圧倒的多数の国々は、アメリカが提唱する普遍的な価値観やアメリカの意見が国際世論を代表するとは考えていない。」と非難し、「アメリカにはアメリカ流の民主主義があり、中国には中国流の民主主義がある。」と主張しました。

 この「中国流の民主主義」について、東洋大学・薬師寺克行教授が東洋経済オンラインに「国民は人民の敵!『中国流民主主義』の危険性」という論考を掲載していましたので再掲します。(少し長いですが、中国への見方が変わりますので最後まで読んでください。)

<民主主義は普遍的価値を持っており、国によって定義が大きく異なるものではないというのが、民主主義国での常識だ。ところが中国の民主主義はまったく異なる。「民主主義の形は一つではなく、各国それぞれの民主主義のスタイルがある」というのだ。

 もちろん、これは中国に都合のいい勝手な理屈以外の何物でもない。中国は自分たちも自由や民主主義を大事な価値として独自のやり方で実践していると臆することなく主張している。

 こうした中国流民主主義を「民主主義とは似て非なるもの」と一笑に付す事は簡単だが、それでは済まないのが現実である。中国の政治や法律など統治システムの全てがこの理屈で成り立っており、それに基づいて外交や安全保障などの国家戦略が構築されている。それを踏まえたうえで、西側諸国は対処しなければならない。

■人民主義の国・中国

 では、先進民主主義国の民主主義国と中国のいう民主主義国の決定的な違いはどこにあるのだろうか。そのキーワードは「人民」という言葉にあるだろう。

 習近平主席をはじめ、中国の指導者はしばしば「人民」という言葉を使う。その一方、我々になじみのある「国民」という言葉はほとんど使わない。中華人民共和国という国名をはじめとして、憲法や法律も、人民を使っても国民という言葉は使われていない。

 問題は、人民という言葉の意味だ。中国憲法では第1条で「中華人民共和国は、労働者階級が指導し、労働者、農民の同盟を基礎とする人民民主主義独裁の社会主義国である」と規定し、さらに第2条で「あらゆる権力は人民に属する」、「人民が国家権力を行使する機関は、全国人民代表大会および地方各クラスの人民代表大会である」などと定められている。

 先進民主主義国で当たり前のように言われている国民主権という言葉は無く、中国は人民主権の国なのである。では、国民と人民は同じなのか。

 中国近・現代史が専門の埼玉大学・小野寺史郎准教授著の『中国のナショナリズム』によると建国初期の頃、毛沢東主席は「抗日戦争期は抗日戦争に参加した階級、階層はみんな人民であり、日本帝国主義者、漢奸、親日家は人民の敵である」、「解放戦争(国共内戦)期は、米帝国主義とその走狗、官僚資産階級、地主階級、国民党反動は人民の敵である」と述べ、そして「社会主義建設期は、建設事業に賛成し、擁護し、参加する階級、社会集団は人民であり、社会主義革命に反抗し、敵視し、破壊する社会勢力は人民の敵」としている。

 周恩来首相はよりクリアに定義している。「人民と国民には区別がある。人民は労働者階級、農民階級、反動階級から目覚めた一部の愛国民主分子である」としている。そして、人民に含まれない人達については「中国の一国民ではあるので当面、彼らには人民の権利を享受させないが、国民の義務は遵守させなければならない」と説明している。

 つまり、国民と人民は異なる者であり、国籍を持つ国民全員が人民であるということではない。人民は中国共産党の掲げる思想や政策を支持する国民の一部であり、それを支持しないで批判や反対をする国民は人民では無いのである。

 それどころか、人民に属さない国民は、人民の敵であり、人民の持つ権利は行使できないが、法律を守るなどの義務を負うというのだ。

 半世紀以上も前の毛沢東や周恩来の考えが、まさか今日も生きていることはなかろうと思いたいところだが、残念ながら現行憲法を見る限り、国民と人民を区別する考え方は明らかに継承されている。さらに、中国の憲法には「いかなる組織ないし個人も社会主義体制を破壊することを禁止する」とも記されている。つまり人民で無い国民に対する様々な弾圧や抑圧が法律上、正当化されているのだ。

■毛沢東の言葉は今も生きている

 中国の論理からすると、中国共産党が一党支配する現在の中国政治を批判する人は、中国の国籍を持っていても主権を行使できる人民ではなくなるばかりか、人民の敵となってしまう。中国のさまざまな法律に基づいてさまざまな権利を奪われてしまううえ、言動が規制されてしまう。

 新疆ウイグルにおける大規模な人権弾圧も、中央政府に批判的な活動をする人権派弁護士や作家、ジャーナリストらの拘束も、彼らを人民の敵であると規定することですべて正当化される。そして習近平体制の下でこうした弾圧がますます強化されていることは、毛沢東や周恩来の唱えた国民と人民の区別が今日も厳然と生きていることを証明している。

 先日閉会した全国人民代表大会で認められた「香港の選挙制度改正」は、この理屈をついに香港にも徹底させることを意味している。

 香港の場合、人民と愛国者が同じ意味で使われており、新たな選挙制度では香港の政府や議会など統治システムには愛国者しか参加できなくなる。

 立法会選挙に立候補しようとする者が愛国者であるかをチェックするのは、人民主権を守るために当然の合法的な手続きであるということになる。その結果、香港の民主化や独立を主張する人々は愛国者ではない、人民の敵となるのだ。

 米中高官会議における楊氏の発言にみられるように、中国が独自の民主主義論を今後ますます前面に出していくことは明らかだ。そして、中国の論理は世界中の独裁者や権威主義的国家にとっては実に都合のいいものであり、感染症のようにあっという間に世界中に蔓延しかねない。そうした国々が中国を中心に手前勝手な民主主義を掲げて結束したときに国際社会はどうなるのか。

 これは民主主義と権威主義のいずれが優れているかという次元の話ではなく、民主主義が直面している危機だろう。先進民主義国を中心に国際社会が連携してその価値を高める努力をしなければ、手前勝手な民主主義が国際社会に広がりかねない。世界はいま、そんな状況にある。>

 今まで、私を含め多くの方々が、民主主義という普遍的価値は世界共通のものと考えており、その根幹を成しているものが人権であることを疑いもしなかったと思います。

 しかし、GDPランキング2位で、まさに経済的にも米国を追い越そうとしている大国の中国が、その建国までの歴史的な経過が大きく影響した事とは言え、国民と人民を差別することにより今の国家たる存在を作りあげ、その手法が間違いで無かったとして、これが中国流の民主主義であり、反抗する者は敵であって弾圧の対象となるという考え方が国家の根本理念であるとすれば、これまでの新疆ウイグル、香港、台湾などに対する国際的な批判などは、逆に中国からすれば「おかしな批判」と受け止めることになります。

 米国だけではなく真の民主主義を実践している国々は、日本を含めてそういう国を相手に外交をするという覚悟も持たなければならないのだと、この論考に改めて教えられました。


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