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あれから2年

  • 2013年03月11日

2年前の3月11日午後2時46分、私は、市内の企業や団体の挨拶回りをしていました。
ちょうど、ある調剤薬局に入った瞬間、強い地震に遭遇し、薬局内から外に出て回りの状況を把握しようとしましたが揺れが長く、今まで経験したことの無い不安に包まれてしまいした。
当日は恵山地域で個人演説会を開催する予定になっていましたが、ラジオでは津波が押し寄せる警報が出されおり、漁業が主産業の地域だけに漁船を沖合に出さなければならないことなどを考慮し、早めに状況を把握するため現地に向いましたが、国道278号(恵山国道)は車で恵山に向かう方々が多く、一方、津波の到達時刻が迫っていることをラジオは刻々と伝えていたことから、恵山地域での個人演説会の中止を判断し、Uターンして旧市街へと戻りました。
テレビでは東北地方の津波被害の様子が映し出され、まるで映画の特撮シーンを見ているような錯覚に陥り、大変な事になったことを実感。
函館市役所に設置された災害対策本部に駆けつけ、市内の津波到達時間や避難広報や態勢などを確認、さらに渡島総合振興局に設置された災害対策本部にて、渡島管内の津波到達状況などを把握、あたりも暗くなってきたましたが、津波が一番最初に到達するであろう函館市水産物卸売市場の管理事務所にて待機をしていました。
その時は津波の高さはそんなにも影響は無いだろうとの予測であったため、まずは帰宅、翌日に備えました。
翌日6時に起きましたら、函館港の沿線が津波被害に遭い、とりわけ朝市から水産物市場にかけての被害が甚大である情報を得て現場へ急行しました。かなり手前から通行止めとなっており、邪魔にならない場所に車を置き朝市へ。
朝市では、津波の波をかぶった機材や商品が山のように散乱しており、市の職員や朝市の関係者が処理をしていました。
市の職員は、緊急業務等に関係する職員以外、総出の体制となっておりましたが片付けても片付けても先が見えないほど、極端ではありませんが朝市の全ての物品が使い物にならない廃棄物となってしまったようです。
その状況は朝市から水産物市場、さらに金森倉庫群まで続き、まさしく未曾有の被害となってしまいました。
すぐに、函館市選出の道議会議員5名(私を除いて)に連絡し、知事宛に災害復旧支援を申し入れることを提案、まずは、申し入れ書を起案し、持ち回りで了承を得て12時に渡島総合振興局長に提出。14日に知事が現地視察を行うことになりました。
一方、福島では東京電力福島第1原発が地震と津波で1号炉から4号炉までが事故を起こし、今でも大量の放射性物質の放出を続けています。
福島では、2年経った今でも故郷に帰ることが出来ません。
これは、地震・津波災害の復旧が遅れていることだけではなく、原発事故による放射性物質の影響が未だに続き、故郷が立ち入り禁止状態となっているからであり、いつ戻れるのか、あと何十年かかるのかさえもまったく判らないことにあります。
このような状況にあっても、安倍総理は原発の必要性を訴え、技術レベルは上がっているので、安全性が確認された原発から再稼働を行い、先にはエネルギーの安定供給のために新設もあり得ると言っています。
3・11フクシマの経験どのように受け止めているのか、安倍総理の精神構造を疑うと共に、国民に対する背信行為として受け止めなければならないと思います。


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